高校1年の夏休み、僕はアメリカンフットボール部でタックル練習をしている最中に大怪我をしました。今の仕事に直接つながる話ではありませんが、教員を目指す人や、部活動にかかわる先生に読んでもらえたらと思い、当時のことを書きます。
この記事でわかること
- タックル練習中に起きた事故と、その後の手術
- 「復帰できない」と告げられたときの気持ち
- 4年間、3浪した受験生活の実際
- 両親への思いと、今、部活動指導に活きていること
タックル練習中に頭が痛くなり、気づいたら手術が終わっていた
その日はタックル練習をしていました。以前に脳震盪を起こしたことがあったのですが、今にして思えば、おそらく脳震盪の状態のままタックルをしてしまったのだと思います。頭が痛くなり、ヘルメットを取って寝かせられました。徐々に周りの声が聞こえなくなっていき、気がついたときには、手術が終わっていました。幸運だったのは、通っていた高校の比較的近くに脳神経外科があったことです。顧問の先生が、救急隊員にその病院へ向かうよう伝えてくれたのだと思います。
脳挫傷でした。頭蓋骨の一部を、ドリルとのこぎりを使って取り出す手術を受けました。骨は放置すると腐ってしまうため、その間、自分の下腹部の皮膚の下に保存されていました。脳と頭蓋骨の間に血液がたまり、また衝撃で脳が腫れていたため、頭蓋骨の一部を取り出して血を抜き、腫れが引くのを待つ必要があったのです。その期間はおよそ2週間。腫れが引いたあと、2度目の手術で骨をもとの位置に戻してもらいました。同じところを2度切っているので、今でも頭部に傷跡が残っています。合計でおよそ1か月の入院生活でした。8月上旬に怪我をして、退院は9月上旬でした。
「復帰できない」と告げられて
退院したときには、すでに2学期の授業が始まっていました。当然、授業にはついていけなくなっていました。主治医からは、1年後にアメリカンフットボールに復帰できると言われていました。友だちがいなくなる不安もあり、僕は引き続きアメリカンフットボール部に所属し続け、アップや筋トレなど、防具をつけない練習には参加していました。
その後、途中で主治医が変わりました。1年後、新しい主治医に復帰していいか尋ねたところ、同じ箇所に同じような力が再び加わると、左半身不随になる可能性があると告げられました。正直、なんとなくわかっていた、覚悟していたところもありました。選手としての自分の能力は自覚していたので、激しく落ち込むことはありませんでした。それでも、1年間試合に出ていなかったので、復帰後にちゃんとやれるのかという不安はありました。選手として復帰できないとなったとき、チームに所属し続けるかどうかは迷いました。それでも最後まで、チームの一員であることを選びました。
友人にどう伝えたかは、特に覚えていません。ただ、「チームのために頑張ってほしい」というようなことを言われた気がします。選手として復帰できないと決まっても、それまでのチームへのかかわり方が続くということなので、チームのみんなも僕を受け入れてくれたのだと思います。
滑り止めを受けず、全敗を繰り返した3浪の生活
勉強のほうは右肩下がりでした。高校1年の1学期は頑張っていましたが、いっぱいいっぱいでした。2学期からどんどんついていけなくなり、勉強もしなくなり、成績は底辺だったと思います。無駄なプライドだけはあったので、現実逃避を重ね、結局3浪しました。
1浪目は新聞配達のアルバイトをしていました。特にお金に困っていたわけではなく、友達に誘われて始めたものです。予備校には通わず、中学から通わせてもらっていた個別指導塾に、引き続き通わせてもらっていました。いわゆる宅浪に近い状態です。和田秀樹さんの受験ノウハウ本に影響を受け、その本に書いてある通りに勉強しようとしましたが、できなかったのだと思います。できていれば合格していたはずですから。日中は自宅にこもりっぱなしで、自制ができていませんでした。無駄なプライドだけが高く、滑り止めを受験せず、どこにも合格しませんでした。新聞配達のアルバイトは年内でやめました。
2浪目も1浪目と同じような生活を繰り返していました。1浪目の反省を生かして医学部を目指そうと計画を立て、最初はやる気に満ちていましたが、勉強量が全く足りていませんでした。周りに2浪した友達がそれなりにいて、両親も僕の考えを何も言わずに受け入れてくれたので、危機感をあまり感じていませんでした。通っていた個人塾に東進衛星予備校があったので、2浪目から受けさせてもらい、3、4人の少人数の英語講座にも参加させてもらいました。この講座のおかげで、英語の力は人並みにつけることができました。代々木ゼミナールの化学の講座にも週に1回通っていました。それでも2浪目も滑り止めを受験しなかったので、全校不合格でした。
3浪を父親にお願いしたとき、さすがに「お前は何を考えているんだ」と言われましたが、最終的に3浪を認めてくれました。周りに3浪している友人はいませんでした。東進衛星予備校は続けさせてもらっていましたが、英語の講座には参加していなかったと思います。3浪目は、さすがに周りの意見もあり、滑り止めの大学を受験しました。結局、4年間の大学受験で、その滑り止めの大学しか合格しませんでした。
脛をかじり尽くして、何の親孝行もできなかった
当時の自分の考え方は、あまりにも幼かったのだと思います。自分のことしか考えることができていませんでした。両親の思いに考えが至りませんでした。感謝すらできていたか、自信がありません。ただ、子どもを受け入れてくれた両親には、感謝しかありません。脛をかじって、しゃぶりつくして、何の親孝行もせずに、両親ともども他界してしまいました。後悔しかありません。
今、部活動を指導する立場になって
今、部活動の指導に活きているものがあるとすれば、それは高校の時の経験というよりも、教員になってからの経験の積み重ねがもとになっていると思います。今の職場では、部活動の顧問として多くの時間を費やしてはいません。部活動が生徒の居場所の一つになればいいと考えています。今、ソフトボール部の顧問をしていますが、部員は2年生1人、1年生1人の計2人なので、ほとんどエクササイズ部のような感じです。アップをして、キャッチボールをして、トスバッティングをして、ノックをしてなど、できるメニューが限られている中で、毎回できることに取り組んでいます。
ポイント
1年後に告げられた「復帰不可」は、選手としての自分を静かに終わらせるものでした。それでも部に居続けたのは、友人との関係が、それだけ大きな支えだったからだと思います。
まとめ
高校1年の夏、タックル練習中の事故で1か月入院し、その後も選手として復帰することはできませんでした。授業についていけなくなり、成績も落ち、結果として3浪もしました。両親への感謝を、当時はうまく形にできませんでした。今、教員として部活動にかかわる立場になり、あのときの経験を、どこかで生徒の安全に対する意識として持ち続けています。
まとめポイント
- タックル練習中に脳挫傷を負い、緊急手術を受けた
- 1年後、左半身不随のリスクを告げられ、選手として復帰できなかった
- 4年間の受験で3浪し、滑り止めの大学にしか合格しなかった

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